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大阪府吹田市で、3兄弟の真ん中に生まれました。近所の子たちと仲良く、のびのびと暮らしていました。
6歳の春に神奈川県に引っ越しました。引っ越してから、両親の雰囲気が変わってきました。父が忙しかったのかもしれません。家庭内が少しずつギスギスし始めました。
小学校低学年の頃は、根拠のない自信をもった子どもでした。本が好きで他の子が知らない漢字を読めたり、授業中に積極的に手を挙げたりして、学校が好きでした。薮の中に探検に行ったり、年上の子の秘密基地に忍び込んだり、よく外で遊びました。
でも3歳上の兄は小学生の頃から人間関係で苦労しており、中学校から不登校になりました。兄が家庭内で荒れるようになり、母もそんな兄に困り、私に「我慢しなさい」と言うようになりました。母が庇ってくれないことが悲しかったですね。
私が小学校高学年になる頃には、家庭内の雰囲気も悪化していました。高かった自己肯定感もだだ下がり。私はブスだし何もできない、など自分を否定するようになりました。
地元の公立中学に入学後、バレーボール部の活動と勉強を頑張りました。特に勉強は1番じゃないと認められない、意味がない、と思いつめていたところがありました。両親の私に対する期待は兄ほど強くなかったものの、「兄の代わりに私が頑張らなきゃ」「私のことも見てほしい」と思っていたのかもしれません。
その後学区で一番の公立高校に進学。両親からの「良い大学に入って当然」という期待もあり、勉強も変わらず頑張りました。進路選択の時、学科を選べるほど知らないので、いろいろ学びながら専門を選べる大学に入ろうと思いました。途上国の貧困問題をテレビで見て何かできることはないかと考えていたので、国際的なことも学べる学科にしようと、総合政策学部に入りました。
長年大学受験が一番の目標だったので、入学した時、「これからどうしよう」と戸惑いました。
1年生の必修科目で、自分のホームページを作る授業がありました。その時、書くことが何もなかったんです。他の人はいろいろな経験や決断をしてきているのに、私は勉強だけ頑張ってきて、中身が何もない。自分は狭い世界で生きてきたんだと、足元ががらがら崩れる感覚でした。
夏には、スタディーツアーでアジア数ヶ国を訪問しました。衝撃でした。タイのスラムで、子どもたちがみんな、良い顔をしているんです。彼らは、置かれている状況は厳しいかもしれないけど、彼らの目をみて、私が「何かしてあげる」のは違うと感じました。途上国の支援を仕事にしていくことはできないと思いました。
同時に、なんで自分が生きづらいのか、向き合わなきゃいけないと思いました。
私の生きづらさの背景には、兄の不登校や、家庭環境の悪化がありました。母は専業主婦でしたが、「働きたかった」と言っていました。女性に稼ぐ力がないのがおかしいと思い、女性学や女性の労働に興味を持ちました。
3年生の頃、大学院に興味をもち、会社で働くイメージがないまま、少しだけ就職活動をしました。新しいものを追いかけていくイメージのジャーナリストに興味を持ち、新聞社だけ受けましたが、2次試験で「本当にやれるの?」と生活のハードさを強調されて怯み、結局大学院に行くことを決めました。
4年生の初め、院試を受けました。分野横断の新領域の研究科でした。ジェンダーを専門とする先生もいて、女性の雇用問題を研究する予定でした。
同じ頃、学部ゼミの先生が事例として持ってきた、ある共同体の公演ビデオが、すごくおもしろかったんです。
その共同体は、精神障害を抱えた当事者が地域で暮らせる試みを行っている拠点で、病気の経験や困っていることを話し合う「当事者研究」が行われています。自分自身を研究対象としてどういうメカニズムでその症状があらわれるかを共有するんです。ユーモアがあって、隠しごとがない。こういう場所があるんだ、と感動しました。
それから、見学したり、当事者の住居にステイして様子を記録したりインタビューをさせてもらったりしました。
私自身が、その出会いで癒やされました。みんな弱さも醜さもあって、それでもこうやって生きていけるんだなと「ありのままの自分でいい」と体感できる場所だったんです。私もその場で初めて本音で家族のことを話しました。聞いてもらえて、私自身の経験の捉え直しができました。
結局、大学院でも、女性の雇用問題でなく、その共同体の研究を継続することにしました。
大学院1年時に就職活動をしました。研究に憧れはあったけれど自信はなく、経済的にも厳しく、一般企業に入るなら博士課程に行かずに就職したほうが良い。「働く」ことに関心があったので、「働く」ことがリアルにわかる場所が良いと考え、働いている人の話や企業の話を直接聞くことができる人材紹介会社に入社しました。
営業職を希望しましたが、カスタマーサービスの事業企画職に配属されました。業務の全体像を理解していない段階だったので苦労しましたが、上司に恵まれ、なんとか仕事していました。
その後、異動を経て、障害者の就職支援の提案を会社にする機会に恵まれました。例えばシステムの中に「障害者手帳あり」という欄を作ったり。会社に福祉的な視点を提案したいと思っていたので、小さいけれど成果を残せて嬉しかったです。
入社3年目で結婚・妊娠し、産休に入ることになりました。一線を離れるのは嫌だけど、正直これで長時間労働の毎日よりも生活リズムが改善されるかも、と思いました。
翌年4月に時短で復帰しました。でもリーマンショック直後で、もともといた部署がなくなり、庶務的な仕事になったんです。リストラで部署の雰囲気も殺伐としていて、まるで転職したかのようでした。お世話になった人もどんどん辞めていく。私も辞めたいけれど、辞めたところでどうする?と悩みました。家事育児も抱え込んで、夫とのコミュニケーションも上手くいかず、気持ちが腐っていきましたね。
復帰後1年経った頃、異動でキャリアアドバイザーの仕事になりました。育休後に復職する人が増えるなかで、これからは育休後の人も戦力化しようという会社の意図でした。エネルギッシュな先輩方もいて、モチベーション高く楽しく仕事ができるようになりました。
この仕事をずっとやっていくのか、もやもやは相変わらず感じていましたが、少なくとも第2子を産んで復帰するまでは頑張ろうと思いました。
復帰して2年半頃、第2子を授かり、この産育休を機会に改めて自分探しをしようと決めました。
第2子出産後、産後ケアのNPOに出会い、衝撃を受けました。私がもやもや感じていたことが、NPOの冊子にまとめられていたんです。まず体力を回復させ考える力を取り戻し、そこから自分も関わった人たちとのコミュニティをつくるなど、主催者側に回るようになりました。
NPOの活動をする中で、たくさんの母となった女性たちが自分のニーズを置き去りにして家族と会社のために疲弊している状況や、専業主婦の自己肯定感が低いことを目の当たりにしました。女性の健康とキャリアへの関心が増し、いつかもう一度大学院に行きたい、と思い始めました。
この時期は社労士の勉強をしてみたり、片づけコンサルタントの資格をとったり、イメージコンサルティングを受けたり、今後の方向性や自分の好きなことを探るべく、思い切ってお金と時間を使いました。
結局、育休中に、この先にやりたいことは決まりませんでした。でも、やりたいことができた時に応援してくれるコミュニティがあること、繋がりを持っていることが大事だと、NPOの活動を通して思うようになりました。
2度目の育休復帰後、仕事は概ね楽しく、やりがいもあり、充実していましたが、復帰後3年目に上司が変わりました。それがたまたま「節目」のタイミングでした。上の子が小学校、下の子が幼稚園にあがる時だったんです。これがタイミングだと思い、33歳で退職を決断しました。
退職時には大学院に戻りたい、という気持ちが強くありました。でも、研究したいテーマは分野的にも難しく、いろいろな先生に会いに行きましたがなかなかピンとこず、ずっと探しながら準備していました。
大学院が決まるまで何もしないのもどうかと思い、今までの経験を活かして、自分がやりたくて人の役に立つことをしようと思いました。ちょうどブームがあり、片づけコンサルタントの仕事をやってほしい、という声もかかり、自分の仕事にJoy Living Lab.と名前をつけ、まずは片づけコンサルタントから始めました。
退職して数ヶ月後には、エスキャリアとご縁があり、キャリアコンサルタント資格を取得してカウンセリングも行うようになりました。
翌年、栃木県宇都宮市に拠点を移し、更に1年後、ようやく研究をできる大学院を見つけ、博士課程に進学しました。
現在、「女性の健康とキャリアの支援」をミッションとして、研究活動、ワークショップ、キャリアカウンセリング、片づけコンサルタントの仕事をしています。
月に1~2回はワークショップを運営しています。キャリアのお話をする機会もあれば、読書会をしたり、講師を呼んで身体に関するワークショップをしたり、様々な活動をしています。プロボノで産後ケアのNPOで母となった女性向けのサロンも開催しています。そういう場での出会いから、他のお仕事に繋がることもあります。
エスキャリアを通してオンラインで、あるいは宇都宮にて個人で、女性のキャリアカウンセリングもしています。宇都宮では、口コミで来ていただくことが多いですね。また、片付けコンサルタントのお仕事も、ご依頼ベースで活動しています。
今、一番力をいれたいのは研究活動です。そのつもりで会社も辞めましたし、仕事やボランティアで予定を詰めすぎないようにしています。
大学院では、健康社会学分野のゼミに所属し、産後の女性のメンタルヘルスについて研究しようとしています。
一般的な母親支援は、「母としての役割をよりよく果たすための支援」です。母親は、その役割の中でしかいられず、自分自身として語る場が多くはありません。私が関わる産後ケアのNPOでは、語り合う場が継続して身近にあり、そこでコミュニティが育ちます。これが母親の精神健康に長期的に関係してくると思います。
この仮説を検証してエビデンスを示すことで、政策にも結びつけていけたらなと考えています。時間はかかると思いますが、良い研究をしたい気持ちが強いです。そして、海外発表や、海外での学びの機会を得ていきたいと思っています。
夫が第1子出産時に博士を取得し、今では教員として働いています。実践家の人が、博士をとって教員になる道もあるんだな、と夫に教えられました。私も、実践もアカデミックもわかる人になりたい。いろいろな現場での試みをアカデミックに検証し、両方の言葉が使える人になって、政策提言をしていく人の役に立てたらと思っています。
大学院修士課程修了後、人材紹介会社に入社。事業企画、キャリアアドバイザーとして勤務。二度の産育休を経ながら、9年勤務した後、退職し独立。現在は「女性の健康とキャリア」をテーマに、フリーランスとして様々な活動をしながら、大学院博士課程にて研究をしている。
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