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自分らしいキャリアに踏み出した
女性100人の軌跡
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破天荒なキャリアや女性管理職の経験を生かして、新しい時代の女性を応援したい。

大学卒業後、商社で秘書としてキャリアをスタート、シングルマザーとしてブランクから復帰、大手企業の管理職の経験もされた南川さん。様々なキャリアを歩んできた南川さんが伝えたい想いとは。お話を伺いました。

大好きな曲の歌詞を知りたくて夢中で英語を勉強

高度経済成長の真っ最中、東京都の活気ある商店街に生まれました。父はサラリーマンとして毎日忙しく、母は同居する祖母の経営する商店を手伝っていました。戦争で祖父を失くし、女手一つで母を育てた祖母はたくましく、大好きで憧れでしたね。

幼稚園の時も、小学校に入ってからも、同じ商店街に住む友人と一緒によく遊んでいました。遊ぶことがとにかく楽しくて。勉強はできる方で、よく学級委員に推薦されていました。

父が鹿児島県出身で、数年に一度飛行機で帰省していました。その時のキャビンアテンダントの方の接客に感動したことがきっかけで、キャビンアテンダントに憧れるようになりました。

病気がちで体が弱かったので、大学まで一貫の学校に、と両親が考え、小学校高学年から中学受験のための塾に通い始めました。塾の先生がとても情熱的で、学ぶことの面白さを知り、勉強が楽しかったですね。

無事、志望した中学に合格することができました。ちょうどロックバンド・クィーンの日本公演があり、私もどっぷりハマりました。LPレコードを集めていたのですが、歌詞カードには和訳が付いていなかったので、どんな意味なのか知りたくて、一生懸命辞書を引いて和訳し、歌って、自然と英語が身につき、英語の勉強がどんどん好きになったんです。高校に進学してからも英語の勉強に打ち込みました。

大学でも英語を続けたいと、文学部英文科に進学しました。大学に入ってからは、ディスコに行ったり、テニスコートを借りてダブルスをしたり。いわゆるバブリーな女子大生生活を送っていました。

就職活動では、憧れだったキャビンアテンダントを目指し航空会社を受けました。選考は順調に進みましたが、大好きだった祖母の体調が悪く、祖母にすぐに会いにいけないことが気がかりで、やむなく辞退。学んできた英語を生かそうと商社を受け、ご縁をいただき、入社を決めました。

寿退社、離婚、シングルマザーとしてブランクからの復帰

入社後は秘書課に配属されました。常に役員のそばにいるのは、とても緊張しましたね。先輩方は厳しかったですが、サポートする身のこなしなど学ぶことも多く、とても刺激的な日々でした。

OAにも興味があり、時間を見つけてはタイピングの練習をし、社内のタイプコンテストで1位を取りました。そして3年目で広報部に異動になりました。

広報部で発信する楽しさを知り、もっとキャリアを積みたいと思い、総合職への転換試験を受け、合格。その矢先、交際していた彼との結婚が決まりました。結婚したら寿退職が女の花道と言われていて、育ててくださった上司に申し訳ないと思いながらも退職を決めました。

結婚後はパートで美術館の受付で働きました。妊娠を機に辞め、出産後は専業主婦として育児に忙しくしていました。息子が生まれて半年ほど経った頃、夫との信頼関係が壊れてしまう出来事が起ったんです。これ以上婚姻関係を続けていくのは難しく、離婚を決意。息子をおぶって実家に帰りました。

「後悔しないように、今は子どものそばにいてあげなさい」と言う父の言葉に甘え、息子が1歳半になるまで居候させてもらい、そこから就活を開始。ブランクの間に時代はワープロからWindowsへと進化しており、就職は苦戦しましたね。

新聞の求人広告で大手銀行の役員秘書を見つけ、応募。前職での秘書の経験を評価してくれて入社することができました。誇らしかったですし、安心しましたね。

出社初日は浮き足立っていました。公園ママから一転、スーツを着て電車に乗って、綺麗な職場で働く、ただシンプルなことにとてもワクワクしていました。仕事もすぐキャッチアップでき、仕事と育児に忙しくも充実した日々でした。

勤務先の倒産、新たなキャリアを模索した30代

しかし、不動産バブルが崩壊、入社して4年目で倒産。秘書業務は縮小が決まり、肩を叩かれました。「銀行がつぶれるなんて、ウソでしょう?子どもを安心して育てられると思ってたのに」という焦燥が頭の中を駆け巡りました。

息子と私の将来を改めて考えた時に、キャリアがぶつ切りだったので、改めて総合的に学び直そうと思いました。雇用保険の給付をもらいながら職業訓練校に通い、最新のビジネススキルを身に付けてから就職先を探すことに決めました。

職業訓練校では、管理職を目指すために必要なスキルを学ぶ講座を半年間受講しました。最新PCの使い方からプレゼンテーション、人事・組織論、ファイナンス、マーケティングなど、様々なことを学ぶ中で、スキルだけでなくビジネスを構造的、体系的に捉える視点も学ぶことができました。

その後、人材派遣会社の正社員に就職が決まりました。人事部で仕事をした経験はなかったのですが、訓練校での学びを実践していきました。給与計算や社会保険などのアウトソーシングチームのプロジェクトリーダーとして毎日多忙を極めながら実務力を磨きました。息子も小学生になり、仕事に一層没頭しましたね。

外資系企業への挑戦、息子の大学進学直前の突然のリストラ

息子が小学校4年生になり学童保育が終了、放課後の過ごし方が変わったことで、もっと息子と一緒に過ごしたいと思うようになりました。息子の中学進学も近づいていましたし、これを機に働き方を変えたいな、とも思ったんですね。

成果で評価される、外資系企業への転職を考えました。前職での人事経験を基に、外資系携帯電話アプリの開発企業で社員の労務、採用などの担当者として転職することができました。

出社初日から、カルチャーショックの連続でしたね。ゆったりサイズの机がキュービクルで一人ひとり区切られていて、そのスペースの贅沢なこと。外国人のファーストネームが飛び交う会議。定時のベルなんてなく、それぞれの時間で社員が出社し帰っていく。

でも、コミットとアウトプットには厳しく「明日から来なくてもいいよ」の世界がリアルにあり、成果主義とはこういう事か!と肌で実感しましたね。生活にもメリハリができ、プライベートでは息子の中学受験もサポートできました。

また、社員と組織の関係、とは何か?も考えるきっかけになりました。報酬や福利厚生だけでなく、組織内のコミュニケーションについてもオープンでストレートで双方向。旧来の日本企業とは異なるものを学びましたね。

やりがいがあり、居心地もよかったのですが、入社して3年目で事業縮小による人員削減の対象になってしまったんです。それでも、次は外資系の精密部品メーカー・日本オフィスの人事・総務部門の管理職として、ステップアップできました。

転職先では裁量も大きく、さらに多国籍なメンバーで英語もブラッシュアップされ刺激的な日々でしたが、2011年の東日本大震災の影響で日本オフィスの縮小が決まりました。入社して4年、50歳を目前に控えた、息子が高校3年生の秋のことでした。

私立の理系大学を志望していた息子。学費を捻出できるかとても心配でした。今までは母子家庭ということに甘えることなく必死で仕事をし、家計を維持してきたので、お金のことで初めて息子に苦労をかけて申し訳ないな、と落ち込みましたね。

大手企業で女性管理職のキャリアをスタート

そんな時、知人の会社のスタートアップのお手伝いを申し出ました。マンションの一室で机はふたつだけ、でも採用のプロだった知人の近くで多くを学びました。そんな中、大手製造会社の人事施策のグローバル化とダイバーシティを推進するライン部長の求人にめぐり合い、君にぴったりだ、と知人が背中を押してくれました。前職とは規模が違うので大変なチャレンジだと思いましたが、おかげさまで入社することが決まりました。

2012年春、息子は志望大学に無事合格、私は、職業人生で最も大きな会社で最も高いポジション、男性課長を含む14人の部下を持つ管理職として新しい仕事を始めました。

高層階の見渡すようなワンフロアに密度高く社員が机を並べ、島で仕事する感じ、毎朝のラジオ体操など、出社初日から外資時代とはまた違ったカルチャーショックを受けましたね。

女性の管理職はまだまだ少なく、人事部で初めて迎える女性部長をめげさせないように、とサポートしてくれているのを感じました。私自身も、女性管理職として注目され、どのように振る舞うか戸惑いながらも、手をつけなければならないことがたくさんあったので、まずはプレーヤーとして動いてみようと、私らしいマネジメント、チームビルディングを模索する日々でした。

アメリカ、中国、東南アジア、インドまで、海外各国へ出張に行くなど、忙しくも充実した日々でした。グローバルな視点で人事を考える、大きな土俵を与えていただきましたね。優秀な方が多かったですし、待遇に不服はなかったので、これ以上の野望は持たず、目の前のことに最善を尽くしてプロジェクトを推進しました。

入社して4年程経ち、ダイバーシティブームが加速。会社が2020年までに女性管理職比率を20%に、しかも45歳以下を対象にするとコミットしました。新たな指標の元、既に50代だった私は年齢的にこのまま居続けるのは会社への貢献ではない、と思い、セカンドキャリアを考え始めました。

今までの人事の経験を生かした仕事をしていこうと思い、キャリアコンサルタントの資格を取得。息子も大学院を卒業し、実家の居候から飛び出して買った家のローンも完済、ちょうど経済的に背負うものがなくなりました。そんな時、人生の新しい相方とも出会いました。彼もセカンドキャリアを考えていたので、二人なら怖くないよね、一緒にフリーランスでやっていこう、と2017年に独立しました。

その後、友人のSNSでエスキャリアを知り、エスキャリアの理念や、キャリアカウンセリングで、あらゆる世代の女性を支援している点に、私がしたかった事はこれだ!と思いました。私が様々なステージで悩んだ時に相談できる人、特に女性の先輩がいなくてとても不安でした。私の経験で良ければ、ぜひこれからの女性に役立ててほしい、元気になってほしいと思い、エスキャリアのパートナー登録をしました。

今までの経験で、これからの女性が元気になってほしい

現在は、フリーランスとして、人事のグローバル化、人事制度設計や採用・定着支援など法人向けのコンサルティングを行なっています。

エスキャリアでは、マイ・カウンセラーで個人向けにキャリアカウンセリングを担当しています。

今後はハイキャリア向けのキャリアカウンセリング、法人向けのパッケージ開発、セミナー講師など、さらに幅を広げたいと思っています。

人事としての実務経験や私自身が歩んできたキャリアを通じて学んだことで、新しい時代の女性に元気になってほしい、と強く思います。「二の足を踏んでしまう気持ちは良くわかる、でも、まず一歩踏み出してみると景色が変わるよ」と、ライフキャリアに悩む女性たちの背中を押せたらいいですね。


南川 政恵 さん
50代前半 / グローバル人事コンサルタント/キャリアコンサルタント

大学卒業後、商社、で秘書・広報を経験。出産後、ブランクを経て銀行に就職するも倒産して人材派遣会社に転職。人事にキャリアチェンジ後は、外資系製造業の日本オフィスマネージャーを経て、国内大手化学メーカー、総合電機メーカーで女性管理職として人事制度のグローバル化に携わる。2017年独立、キャリアコンサルタント、グローバル人事コンサルタントとしてキャリア支援などに携わる。

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